雪山実技第四回・硫黄岳登頂 2日目

起床、食事、出発準備

5時過ぎに起床。幸いにもトイレはまだ渋滞していない。本日の行動で使うサブザックを出し、荷物を整理する。サブザックで持っていくもの以外は、メインザックごと小屋に置いて行ける。
朝食は6時15分から順に摂ることができるが、ぎりぎりの時刻に行くと、行列の後ろに付いてずっと待つハメになるだろう。ここは先手必勝、照明が入る6時のちょっと前で、列に並ぶ作戦でいくことした。
5時50分頃、お湯を詰めるためテルモスを持って食堂に行ってみると、すでに20人ほどの列が出来ていた。読みが当たり、6時で照明が点灯するとぞくぞく人が集まり始め、あっという間に長蛇の列だ。

時刻通り食堂が開かれ、案内にしたがって着席する。朝食メニューは、塩鮭、温泉玉子、海苔、サラダ、昆布、漬け物など。ご飯と味噌汁はおかわり自由。塩鮭は、ぶ厚く大きな切り身で、普通の旅館で食べる大きさの2人前分くらいはありそうだ。
周りを見ると、長蛇の列はすっかり解消し、全員、大食堂の席に着けている。早くから列待ちしなくても良かったようだ。

食べ終えた食器を戻した横で、お湯をもらう。お湯、お茶、どちらでも頼めるが有料。
出発時刻は8時ちょうどなので、まだ時間は十分にある。カメラを持って、小屋の周辺を歩いてみた。

張られているテントは、どれも張り綱がきちんと固定され、設置に気合いが入っている様子だ。しかし、グループ用の大きなものを別にすれば、シングルウォールのテントが多いようで、冬季用吹き流し口を持つような重装備のものは少ない。ソロテント泊の人に挨拶し、様子を伺ってみると、昨晩は風もなくさほど寒くなかったという。1〜2月の厳冬期だと、また様子は違うのかも知れない。

訓練で昨日使った小さいキャンディーまで行ってみると、製氷中だった。ポンプで細かい水飛沫を吹き付け、一晩がかりで氷壁を成長させているらしい。
7時半になったところで小屋の入口に戻ると、教室のメンバーの大部分がすでに外でスパッツなど装備を付けている最中で、アイゼンとハーネスも装着する指示が出ている。急いで部屋に行き、装備を持って小屋の入口に戻る。靴を履きかけたところで、小屋の中の乾燥室に共同装備品のロープを忘れたとの相談を受けたので、靴を脱ぎ、代わりに取ってきた。靴を履き終わったところで、今度は、置いていくメインザックは乾燥室に置くとのルールを聞き、また靴を脱ぐのか!?との無力感が襲ってきた。「あわてるな・あせるな・あきらめるな」の標語が頭をかすめた瞬間、これから靴を履くメンバーの顔が目に入った。しめた!地獄で仏に会うとはこのこと。これお願い!!とばかりにザックを預け、乾燥室に置いてきてもらった。
ドタバタしながらも装備を付け終わり、何とか8時に間に合ったが、主任講師からメンバー全員に向け時間を守るよう注意が飛ぶ。8時は出発時刻だ。もっと早く全員の準備が揃っていなければ、この時刻には出発できない。反省しなければならない者のひとりに、自分も入っている。
本日の目標は硫黄岳への登頂だが、頂上到達を予定する時刻は、10時30分だ。もし、11時00分になっても頂上に着いていない場合は、どんな理由であってもその時点で引き返すルールが定められた。登頂は目標であって目的ではないのだ。

硫黄岳への山行


8時15分頃、班単位で赤岳鉱泉を出発。最低限の必要装備に絞ったサブザックを背負っているので、とても軽快に進む。登山道は、たくさんの人が歩いているためか、非常にしっかりしたトレースが付いている。ひょっとすると、夏道よりも歩きやすいかも知れない。
15分ほどで、ジョウゴ沢方面との分岐点に出た。ジョウゴ沢は、アイスクライミング用のルートなので、一般登山者はお断り。立ち入り禁止の意味でロープが張られている。もちろん、本日われわれが進むのはジョウゴ沢方面ではなく、硫黄岳の山頂へ向かうルートだ。
分岐点から先は、つづら折りの道を登り、ぐんぐん高度を稼いでいく。ところどころ、つづら折りを直角に横切るショートカットと思われる道と交わるが、我が班の登りでは、つづら折りの道を忠実に歩いた。
途中、樹林に隙間のできる尾根にかかったところで、突然、強風に煽られた。急速に顔の皮膚が凍えてヒリヒリ痛み出し、身の危険を感じたため、大急ぎで目出し帽を被った。
赤岩の頭に出る手前の広場で、軽く休憩をとる。テルモスで喉をうるおした後、これから出合うだろう森林限界越えの強風に備え、ゴーグルやフードをすぐ被れるように準備した。講師のそろそろ出発しようという言葉に応じ、サブザックを背負って立ち上がったとたん、左側の肩ベルトがスルリと外れ、ザックが宙ぶらりんになった。「待ってください!」と大声で講師に呼びかけ、状態を確認する。ベルトが切れたのか?と一瞬思ったが、肩ベルトを腰近くでつなぐプラスチックの留め具から、ベルトが外れていた。すぐに直せる旨を講師に伝え、落ち着いてベルトを留め具に通す。「みんな、手伝ってあげて!」と講師がメンバーに声をかけた。アウターシェルのフード位置を調整していただき、準備万端整ったところで、赤岩の頭に向けて出発。
森林限界を越えたところで、いきなりの大展望。ぐるりと囲む巨大な八ヶ岳連峰はもちろん、遠くは南アルプス、さらには北アルプスの槍穂高までもが地平線の彼方に浮かんでいる。

赤岩の頭を越えて主稜線に出ても、さっきの樹林帯の隙き間で遭った風に比べれば、カラダを叩く風の勢いはそれほどでもない。しかし、前方に見える硫黄岳山頂は、雪煙に包まれている様子だ。きっと、山頂には猛烈な風が吹き荒れているのだろう。

山頂手前の急斜面は、雪が吹き飛ばされ、あまり積もっていない。岩にはびっしりと海老のしっぽができている。アイゼンの爪が岩の隙き間に食い込むと転びそうになるので、注意深く歩く。

岩場を登り切って山頂の平原に出た途端、猛風が吹き付けてきた。足元はジェットのように舞い上がる雪で白濁し、顔には吹雪の微粒子が絶えず激突する。2700メートルを超える標高の厳しさを体感しながら、10時25分頃、指導標が立つ山頂に無事到着。

前方に見える横岳から赤岳へと延びる稜線は、神々しいほどに凍て付いている。足元の平原には強風に押し流されるかのような紋様が描かれ、この世の景色とは思えないほどだ。
強風が息継ぐかのように弱まる隙をみて、班のメンバー並んでの記念撮影を行った後、長居は無用とばかりに下山開始。進行方向を西側にとった途端、激しい吹雪が顔面を直撃するようになった。サングラスをしていても、吹雪の微粒子が超高速で裏側に回り込んで瞳を叩き、一気に涙が溢れ出た。頭に乗せていたゴーグルを急いで降ろしたが、頭から蒸発する汗のためか、ゴーグルの内面はすでに曇っていて、著しく視界が悪い。逃げるような勢いで、平原エッジの岩稜帯の斜面を降りた。

斜面を降りると、嘘のように強風はなりを潜め穏やかだ。展望もまだ効いているが、北アルプスなどの遠望は見通しが悪くなってきた。

赤岩の頭の手前で、講師が無線で連絡をとった結果、山頂近くを今降りている最中の班が到着するまで、この付近で待つことになった。しばし休憩をとるが、10分足らずで、カラダの冷えを和らげるため、移動することになった。暑がりで寒さには強い体質の自分は、全身にはあまり寒さを感じなかったが、ハーネスの絞めたベルトとゴーグルのベルトが当たる部分には痺れのような感覚があった。極寒が血流に影響を及ぼしているのだろう。

場所を少し移動して二度目の休憩中に、後続班が到着。この先は二班一組での下山行動だ。つづら折りのトレースを忠実に辿った登りとは違って、まっすぐなショートカットのルート主体で降りていく。さらさらの雪が積もった斜面には、アイゼン爪の刺さるものがなく、場所によっては片足を踏み出すたびに50cm以上滑るが、適度に制動がかかるためか姿勢のバランスはとりやすい。グリセードとまでは行かないが、慣れてくると、なかなか楽しいスピード下降歩行だ。
ずいぶん下まで降りたなあと思ったら、右折し、トレースがまったくない斜面のトラバースが始まった。途端に、踏み出した足がまるで底なし沼にはまったかのように自由を奪われ、深い雪に沈み込んだ。体制を立て直そうと足にチカラを込めるほど、深く深く引きずり込まれていく。四つん這いになって泳ぐような姿勢で、なんとか沈みを抑えられた。脛がまっすぐ下を向く形で膝を立てると、とことんめり込んでしまう。脛を前倒しにして踏み込むのがコツらしい。さあ、地獄のラッセルが始まった。
講師とメンバーで相談の結果、体力のある男性陣から先行する形で隊列を組み替え、女性陣は後方へ。そして、一番背が高い自分は目印のしんがりとして、隊列の最後を歩くことになった。
30分くらい格闘したような気がするが、必死で時計を見る余裕もなく、正確な時間は分からない。足の着く感覚が戻ってきた地点で、右折しての登りになった。ラッセルで体力を消耗した後なのでかなりキツかったが、何とか一般道のトレースに辿り付いた。メンバー全員、無事にほっとする。

その後の正規のトレースを辿る歩行の、何と楽なことか。12時15分頃、赤岳鉱泉に到着。
講師に事の顛末を伺ったところ、訓練にちょうど良いショートカットルートだと思われたが、まっすぐ下までは降りられないことに気付き、登り返してトレースに合流する判断をされたとのこと。意図してのラッセルではなかったそうである。あのまま、まっすぐ降りたら、ジョウゴ沢上部の氷滝が連続するクライミングルートに行ってしまったらしい。大変な体力消耗ではあったが、経験値はちょっと上がって、他班より得をした気もしないではない。

下山

軽く行動食を摂って休憩した後、班単位に赤岳鉱泉を出発。前日の往路ではノーアイゼンでの歩行だったが、本日の復路はアイゼンを付けて歩いた。
道行く途中には、一般登山者の視点では気付かない、アイスクライミングができるスポットへの分岐点がいくつか現れる。講師から氷滝に関する話を伺うたび、アイスクライミングへの興味がいっそう強まってしまった。また、普通は気にもとめないような、葉が落ちた樹木や枯れ草に対しても、講師から種類や特徴の説明をいただく。シラビソとオオシラビソ、ダケカンバとシラカバの植生が入れ替われる地点など、観察する眼があればとても興味深いことを知った。こうした知識は、地形を正しく読むことにつながり、登山能力を高めるスキルでもある。
積雪がまばらな車道に出たあたりで、講師から「アイゼンを外したい人は自己責任で」と言われ、講師自身はアイゼンを外されたが、自分はアイゼン装着のまま歩くことにした。滑る下り道は、やはり怖い。

14時少し前に、美濃戸山荘前に到着。すべての班の到着を待つ形で、休憩をとった。山荘の入口には、おしるこや肉うどんなどのメニューが掲げられていて、大勢の人が集まっているといかにも営業中な雰囲気なのだが、実際は休業中だ。数年前までは、冬期も土日曜には営業していたそうである。
山荘の脇には水場がある。講師からは、体調に合うかどうか確かめて飲むようアドバイスをいただいたが、水筒に入れて大切に持ち帰り、水割りを楽しむ人も多いそうだ。実際、口にしてみると、強くキリッとした味わいでミネラル分が非常に豊富な印象だ。笠ヶ岳の伏流や黒部源流などの優しい水が好きな自分は、残念ながら好みに合わなかった。
全員揃ったところで出発し、1時間足らずでバスが待つ美濃戸口に到着。
バスはまず、近くのコンビニに向かった。食糧と酒を大量に買い出す腹ペコ集団の来襲に、コンビニの電子レンジもフル稼働。自分は、弁当1個とロング缶ビール1本、おつまみ少々とピルクル500mlを買ったが、ピルクルはちょっとキャラに合わなかったらしく、周辺メンバーでのネタにされてしまった。そりゃまあ、甘いもの好きなのは否定しないけど、お腹の健康を維持するにはこれがいいのだ。
車内では、マイクを順番にまわして、各自の感想を語りあった。さあ、自分は何を話そう? 不思議なことに、前回の谷川岳雪洞泊のときとは違って、語るべきネタがなかなか浮かばない。いや、印象に残ることは前回以上に盛りだくさんなのだが、言葉への翻訳が機能不全に陥っているというか、溢れるほどの情報をさばききれてないというか…。初日でのキャンディートライ、夜のロープワーク特別講習、二日目の山行で体験した吹雪の洗礼などなど、思い付くまましゃべったが、何といっても、冬の八ヶ岳というものがこんなにも魅力ある場所だと知ったことこそ、一番の収穫だったのではないか。そして、この教室で学んだ先にも、もっと学んでスキルアップしたい目標が見えてきたことも大きい。
講師からは、時間を守ることへの注意があらためて語られた。次回4月に予定する赤岳への山行は、今回より行動距離も長く、テント泊のため設営・調理・撤去など共同作業の時間も加わり、行動時間の範囲はより厳しいものになる。各個人で費やす時間はなるべく短くできるよう、装備の装着を練習するなど、工夫してくださいとのことである。また、必要装備が増えて歩行距離も長くなるので、しっかり体力作りしておくことも、宿題になった。

車窓からは見えた風景のうち、ひときわ目立ったのがこのピラミダルな甲斐駒ヶ岳の勇姿だ。いずれ登ってみたい山である。
途中、トイレ休憩で停車したパーキングエリアでは、お土産に信玄餅を買った。時期的にホワイトデーと被りそうだが、やっぱり、山行でのお土産は別扱い。いつも一方的なスケジュールのわがままを利いてくれている感謝の気持ち、はしょるわけにはいかないのだ。