クマに出会わないための基礎知識


飯田橋で開催された「クマに出会わないための基礎知識」という勉強会に参加してみた。事前予約不要で当日直接行けば良いものだったが、参加者は35名ほどの規模。およそ1時間半ほどの講義・事故事例紹介と30分ほどの質疑応答だった。主催は東京都勤労者山岳連盟、講師は東京農工大学 大学院 農学研究院の小池伸介先生。小池先生は、クマの生態研究における日本の第一人者で、日本クマネットワーク(JBN: Japan Bear Network)の事務局長も務められている。
まず、最初に講義されたのは、クマによる人身事故の現状と考察だ。最近30年の事故件数統計によると、ヒグマによるものは、死亡事故が0.3人/年、負傷事故が2人/年。ツキノワグマによるものは、死亡事故が0.9人/年、負傷事故が34人/年程度だという。人口あたりの死亡割合でみると、交通事故の1/500以下、スズメバチと比べても1/5以下という低い値になる。これはとても稀な事故であることを意味しているが、反面、われわれ登山者には人ゴトではないのを示すデータもある。被害に遭った人の分類を見ると、東北地区などでは山菜採りや山林業務の人が主体なのに対し、関東地区はアウトドアレジャーの人が主体なのだ。
では、登山者にできる対策は何か? 大きくは二つのことを意識するべきだという。

  • 「クマにあったらどうする」より「クマにあわないようにどうする」を第一に考えること。
  • 自然の仕組みを知った上で、周到な準備や対応の技術を習得すること。

クマは本来、臆病な動物で、人と出会ってしまうのはクマにとっても不幸な出来事だ。クマを過度に怖がる必要はなく、正しい知識をもって山で行動することが、この勉強会の目指すところになる。

クマの特徴


日本に生息するクマは、ヒグマとツキノワグマの二種類。今回の講義は、本州に生息するツキノワグマの特徴を中心に説明された。
ツキノワグマの生息域は、東日本では広がる傾向、西日本では狭まる傾向がある。そのため、東日本ではクマの被害を抑え込もうという意識が強いが、西日本ではクマは保護すべき野生動物という意識が強いのだという。
ツキノワグマの大きさは人間とあまり変わらず、体重も♂で80kg、♀で50kgくらいだ。寿命は自然環境下では20年ほどだが、動物園などは30年以上生きた例もある。だが、身体能力は人間より抜群に高い。走ると最高時速50km、足裏には大きな肉球があるため足音は非常に小さい。木登りや泳ぎも得意で、立つこともできる。嗅覚は犬より鋭く、動物の中では記憶能力も良い。視覚は悪くないが、色覚が一部劣る。聴覚はあまり良くない。そしてそれぞれの能力は、個体差での優劣が大きいそうだ。
クマは本来、肉食獣だが、ツキノワグマは臼歯が発達し、植物、とくに果実を食べる割合が高い雑食性の動物だ。山の果実は年度によって量が大きく変化する。ブナ、ミズナラ、クリなど、食べ物の構成割合も年度によって異なる。
クマの1年はこんな感じだ。

5月終〜7月始 繁殖期 ♂は♀探しで盛んに動き回る
7月始〜8月終 端境期 食べ物が野山に少ない時期
8月終〜11月中旬 食いだめ 冬眠に備える
11月中旬〜4月上旬 冬眠 ♀は冬眠中に出産する

クマにとって冬眠は最大のイベントだ。秋に十分食いだめてから冬眠するのが、日本のツキノワグマの基本パターンとなる。冬眠場所は、斜面の枯れ木からできた穴などを利用することが多い。ツキノワグマの冬眠には、こんな特徴がある。

  • すべてのクマが冬眠するわけではない。
  • 体温の降下度が低い。
  • 心拍数や呼吸数は1/5程度にまで低下。
  • 間断なく眠り続ける。
  • 摂食、飲水、排泄、排尿を一切しない。(飢餓とは生理的かつ根本的に異なる)
  • ♂若→♂成獣→♀単独→♀子連れの順に冬眠明けする。
  • 妊娠した♀は冬眠中に出産する。(秋に十分な食いだめができなかったときは、受精卵の着床が抑えられるカラダの仕組みがある)

冬眠中も何か刺激があれば、瞬時に目覚めて行動できる状態にあり、飢餓ではないので体力も衰えていない。この特徴を、冬期の登山者は十分に注意すべきだ。
クマは人里ちかくから2000メートル以上の高山帯まで広く生息する。大きな標高差を行き来する個体もいれば、北アルプス立山地区のように2000メートル付近に定住する個体もいる。そのため、冬眠する場所も特定できない。高山帯では、主に柔らかい高山植物を捕食しているようだ。夏場に高山帯まで登る個体は、暑さを避ける目的もあるのかも知れない。

不意の出遭いを避ける知識


第一に考えたいのは、近距離での不意の出遭いを避けることだ。

  • 登山道以外のところを歩かない。
    • バリエーションルートは、クマと出遭ってしまう危険が高いことを心得る。
    • やむを得ない場合は見通しの良い場所を歩く。カーブや藪で見通しが悪い場合は、声を出すなどして物陰に隠れているクマにこちらの存在を教える。
    • マウンテンバイクやトレランなどの場合、普通の歩行者とは違うスピードがクマの逃げる余裕を無くす。見通しの悪い場合にはスピードを緩め、事前に大きな音を立てたりして突然の出遭いを避ける。
  • 視覚だけでなく音や匂いにも注意し、周りの様子に絶えず気を配る。
    • 山菜採りの場合、つい夢中になってしまう。山菜はクマの食物でもあるので、近くにいる確率も高い。
    • 沢筋は水の音で足音や藪をかき分ける音が消され、匂いが流れてしまうので、注意が必要。
    • 音楽プレーヤーやラジオなどイヤホンを付けての行動は、危険を察知できないので避ける。
  • 一人で行動しない。
    • 他の人がいる場合は、一緒に行動する。
    • 子供がいる場合には、目の届くところで行動させる。
  • 夜間、夜明け、夕方の薄明かり時の行動は避ける。
    • 人里近い場所では、クマは深夜に行動することが多い。山岳地では、クマは深夜よりも薄明かりのときに行動することが多い。
  • 強い刺激を与えない。
    • 香水や香りの強い化粧品、シャンプーなどは、クマの興味を惹いたり刺激を与える可能性があるので付けない。
    • クマ対処を調教されていない犬は、山に連れて行かない。キャンプ地ではつないでおく。犬にちょっかいを出されたクマが、犬を追って人間に接近してくる可能性がある。
  • クマの姿や痕跡を見たら、直ちに避ける。
    • 行動中、新しいクマの糞や食べ痕を見た場合は、その場を避ける。テントサイトの周囲(少なくとも50m)に痕跡がないか確認し、もしあればテントは別の場所に設営する。
    • 見通しが悪い藪の近く、ケモノ道の近くには、テントを設営しない。
    • クマを遠く(目安: 50m以上)で見つけた場合は、大声を出さずにクマの進路を見定めて、異なる方向へ静かに離れる。よほどのことがない限り、クマからは近づいて来ない。
    • 常に、いざ遭ったときの逃げ道を考えておく。
  • 食糧が狙われることでの危険を回避する。
    • 食糧置き場、料理場は、テント場から離しておく。
    • クマが食糧に近付いた場合は、追い払ったりせず、静かにその場所を離れて、管理人や近くの人にそのことを知らせる。大切なのは食糧より自分の命と割り切る。
    • 生ゴミは持ち帰るか、完全焼却する。空き缶やペットボトルなどの飲み物、食物が少しでも残っているものは、埋めたり捨てたりせずに持ち帰る。
    • 化粧品などは大量に持ち込まない。ペンキやガソリンもクマは興味を持つことから注意する。(登山道に立てられた真新しい指導標にクマの歯形が付いていたりするのは、ペンキの匂いに引き寄せられたもの)

死傷事故に至るケースとして多いのは、一本道などで母グマと子グマの間に人間が入り込んでしまうパターンだ。こうなると、母グマは絶対に逃げず、強い防衛意識をむき出しにする。クマが人を避けるという原則が通用しない。

出遭ってしまったときの対処

人間とクマがまともに戦ったら、まず人間に勝ち目はない。何より出遭わないことが大切だが、不幸にも出遭ってしまったときには、襲われないことを第一に考える。

  • クマを見たら、騒がず静かに状況を判断する。
    • 他に人がいる場合は、一緒に行動する。
    • 例え子グマであっても絶対に近付かない。近くには子グマを守る母クマがいる。
    • クマに注意を払いながら、その場から離れること。クマが人間に気付いていない場合は素早く静かに、クマが遠くで人間に気付いている場合はゆっくりと。
    • 近くに家や車があれば、その中に入る。
  • クマが近付いてきたら、慌てて逃げない。
    • 走って逃げると追いかけてくる可能性がある。追いかけられたら絶対に逃げ切れない。
    • クマのほうに注意しながら、静かにゆっくりと後退する。
    • クマと人間との間に岩や木を挟むようにする。視線を遮るものがあると、クマの緊張を緩める効果が期待できる。
    • クマと直接目を合わせないようにする。目を合わせると威嚇していると思われる。
    • 木に登ったり、水に入ったりしない。木登りも泳ぎもクマには大得意。
  • クマの逃げ道が開く位置関係に向けて、ゆっくりと移動する。

クマが人間に気付きながら近付いてきた場合は、イチかバチかの対処になる。こうすれば大丈夫という方法はない。以下の内容は、過去の助かった事例から挙がったものだが、たまたま運が良かったのかも知れない。出遭ったクマが持つ性格や学習経験などに結果は左右されるので、ケースバイケースと心得る。

  • クマと人間との間に、カバンや帽子などクマの気をひくものを投げる。
    • 投げられたものにクマが気を奪われている間に、静かにその場を逃げる。
    • 食物は投げてはいけない。
    • クマに直接投げてはいけない。攻撃していると思われる。
  • クマ撃退スプレーを使う。効果があるのはクマの顔に降りかかったときだけなので、使うなら確実に!
    • スプレーを使うときには、風向きに注意する。クマの向かってくる方向が必ず風下になる位置関係になってから噴射する。
    • スプレーは絶対に自分に降りかからないようにする。肌に少し付いただけでも、ヤケドのような刺激を受ける。髪の毛に付くとその後、目や鼻や口に入ってしまい、自分が大きなダメージを受ける。
    • 使用できる距離は、無風状態で最大5〜8メートル以内。5秒噴射×2回程度で空になってしまうので、ミスは許されない。
    • 日頃から、練習用スプレー(刺激剤の代わりに水の入ったもの)を使って、使い方を熟知しておく。
    • スプレーには臭いなどでクマを退ける効果はなく、忌避剤としては使えない。
  • クマが攻撃してきた場合は、最後のわずかに望みをかけるしかない。
    • 後ろ向きで逃げない。また、望みがあるうちは地面にうずくまらない。
    • 近付いてきたクマが攻撃に移るとき、人間の直前で止まり後退する。このとき人間も後退し、距離をとると良い。

  • クマの攻撃は、爪でのひっかきと、歯で噛むことが主なものとなる。
    • ひっかきは、顔面に一撃されただけで肉がちぎれ目が無くなるほどのダメージを受ける。
    • 首筋に攻撃を受けると、頸動脈をやられ命を奪われる。
  • ナイフなどで反撃する場合は、大声を上げながら、目や鼻への攻撃が有効。動き続けて、噛まれたり叩かれないようにする。

以上は、配布いただいた資料と自分が聞き取った範囲から拾った断片的なメモであり、実際の講義はもっと豊富な情報を含み役立つ内容だった。また、以上のメモには聞き誤りや理解誤りを含んでいるかも知れない。詳しく正しい内容を知りたい方には、ぜひとも日本クマネットワーク事務局への問い合わせをおすすめする。

日本クマネットワーク
http://www.japanbear.sakura.ne.jp/cms/

日本クマネットワークでは、普及啓発活動として「ベア・トランクキット」という教材キットを無料で貸し出しされている。クマの毛皮、頭骨、足型などの現物を触って体験できる。学校の授業や自治体のイベントなどに活用され、年間200回ほどの貸し出しがあるそうだ。
そのほか、以下の公開資料もとても有用だろう。

日本クマネットワーク>人身事故情報のとりまとめに関する報告書 (PDF)
http://www.japanbear.sakura.ne.jp/cms/pdf/110528jinshinjiko_houkokusho.pdf

末筆になるが、このような貴重な勉強会を会員以外の者でも自由に参加できる形で開催いただいた、東京都勤労者山岳連盟様に、深く感謝を申しあげたい。